娘が7歳になりました。
娘は7年前、震災のすぐ後に予定日より少しはやく産まれました。
出産予定日を2週間後に控えていた7年前の3月11日。
その日、私はたまたま実家にいました。
自分たちの住むアパートから徒歩15分の実家に、散歩がてら遊びに来ていたのです。
母とおやつのお団子を食べていた時。
突然、グラッと家か大きく揺れました。
揺れが大きく、祖母の写真が仏壇から落ちて割れました。
私と母は、家にいると危ないと思い外にでました。
近所の家と電信柱が大きく揺れて歪んでいるように見えました。
揺れはひとまず治まったので、家に入りテレビをつけました。
ただ事じゃない雰囲気がテレビの報道から伝わります。
ニュースは全て地震のニュースとなり、津波の映像が流れています。
枝野官房長官が、外に出ないようにとしきりに報道しています。
その日、夫は帰宅難民となり家に帰れませんでした。
アパートに1人でいるのが怖かったし、歩いて帰るのが不安だったのでその晩は実家に泊まりました。
翌日、夫がクタクタになって帰ってきました。
私は、お腹にチリチリとした痛みを感じていました。
まだ予定日より2週間早いけど、一応病院に行くことにしました。
しかし、まだ産まれる段階じゃないとのことで、家に帰ってきました。
相変わらず、ニュースは地震のニュースをやっています。
余震が続き、外ではサイレンが鳴っています。
福島第一原子力発電所事故が発生し、もし原発が爆発したらどうなるのだろうと不安でいっぱいでした。
夕方から、陣痛らしき痛みがあったけれど、陣痛の痛みが初めてだったので、この痛みが陣痛だと気づきませんでした。
夜中に猛烈に痛くなり、「これは陣痛だ」とその時にやっと気づいてあわてて病院へ行きました。
そして、病院についてあっという間に娘は元気に産声をあげたのです。
娘が産まれて、入院している時も地震の影響は続いていました。
計画停電により、病院が真っ暗になりました。
電気もテレビもエアコンもつきません。
助産師さんが、私たちが不安にならないように一つの部屋に集めて、真っ暗な部屋の中でみんな一緒に紅茶を飲みました。
赤ちゃんも一緒です。
娘は、湯たんぽを入れてもらい、暗い部屋で懐中電灯に照らされていました。
夜に娘に会いにくる夫はマスクをしています。放射線の影響です。
道路の信号は消えて、家の明かりもつかず町中が暗闇に包まれていたそうです。
入院中のテレビは相変わらず地震のニュースしかやっていません。
ひっきりなしに津波の映像が流れ、私は本当に怖くてたまりませんでした。
この先、この世界で、産まれたばかりの赤ちゃんを守っていけるのだろうか?
不安で涙がこぼれてきました。
あの不安な日々から、7年が過ぎました。
娘は7歳になり、毎日元気に学校へ通っています。
まだまだ甘えん坊ですが、すくすくと成長しています。
誕生日が来るたびに、あの日のことを思い出します。
あたり前の日々が、いかに大切で愛おしいものなのか、あらためて感じずにはいられません。
うまれてきてくれて、ありがとう。
※東日本大震災で亡くなられた方、家族や大切な人を失った方、改めてお悔やみを申し上げます。
今もなお、避難者は7万人を超えています。多くの被災者の方には、一日も早く安らかな日々が戻ることを祈念いたします。